2017-02-04

大橋敏雄氏死去


 大橋敏雄も義憤の人であった。昭和40~50年にかけて公明党は池田の思いつきに振り回されていた。昂然と池田批判を口にする議員も少なくなかった。なかんずく党首脳が愕然としたのは創共協定であった。私も今なら理解できる。日本共産党は公安からマークされている団体である。しかも昭和40年代といえばまだ学生運動の炎が燃えていた時期だ。その危険な団体と手を組むのは彼らの革命に加担することを意味する。自民党と強いつながりを作り上げてきた竹入義勝と矢野絢也には池田が狂ったように見えたことだろう。後に野崎勲が「共産党の動きを10年封じる池田の戦略であった」ことを矢野に明かした。高等戦術というよりは一種の謀略であるが、公明党の政権入りを遅らせたことは間違いないと思われる。大橋が池田に反旗を翻した途端、学会本部は「大橋に関する女性問題などのスキャンダルを知らないか?」と矢野に問い合わせる。「知らない」と応じると「じゃあ、しようがない。こちらで探す」と電話を切った。批判を絶対に許さぬその個人崇拝ぶりは毛沢東に匹敵するといってよいのではないか。