なにかをしていることが当然であるという集団の中に長くいると、そうじゃない人と出会ったときに許せなくなってしまうのではなかろうか。こわいですね。
— AtelierNonta@DF_K235 (@enonta) 2014, 10月 31
お互いが独自で前に進んでいける、それを喜べる人間関係でないと意味が無いと思うんよ。
— AtelierNonta@DF_K235 (@enonta) 2014, 10月 31
なにかをしていることが当然であるという集団の中に長くいると、そうじゃない人と出会ったときに許せなくなってしまうのではなかろうか。こわいですね。
— AtelierNonta@DF_K235 (@enonta) 2014, 10月 31
お互いが独自で前に進んでいける、それを喜べる人間関係でないと意味が無いと思うんよ。
— AtelierNonta@DF_K235 (@enonta) 2014, 10月 31
笑われた呂不韋〈りょふい〉は目に慍色(うんしょく)をだした。
「怒ったか。では、問おう。孫子の教義とするものは何か。仁義などではなく、わかりやすい例を挙げてみよ」
「孫子曰(いわ)く」
「む……」
「学は已(や)むべからず」
「む……」
「青はこれを藍より取れども藍よりも青く、冰(こおり)は水これを為(な)せども水よりも寒(つめ)たし」
「ほう」
「また孫子曰く」
男は黙ってしまった。
「高山に登らざれば天の高きを知らず、深谿(しんけい)に臨まざれば地の厚きを知らず、先王の遺言を聞かざれば学問の大なるを知らざるなり。さらに孫子曰く。神(しん)は道に化するより大なるは莫(な)く、福は禍の無きよりは莫し」
【『奇貨居くべし 春風篇』宮城谷昌光(中央公論新社、1997年/中公文庫、2002年/中公文庫新装版、2020年)】
<エボラって何?>
<いまどうなってるの?>
約1週間分のエボラ情報をまとめました。
どっさりあるので必要に応じて読んでください。
http://t.co/6Fa7F9Vjmt
— Midori Fujisawa (@midoriSW19) 2014, 10月 18
「江戸っ子狩り」という虐殺があったとする荒唐無稽な主張/“偽物の歴史”を教育に用いるのは、倫理の根幹を破壊する行為~「江戸しぐさの正体」著者・原田実氏インタビュー (1/2) http://t.co/80ylnrSB1D
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 10月 18
間違わない組織なんてない。それは革命党でも会社でも宗教でも同じである。左翼の諸党派などは、そもそもの出発点から間違っているかも知れないのだ。しかし、自分たちは正しい、党は間違えない、それに反する者は反党分子である。正しい党員に革命的に鍛えあげるか、革命的に処分しなければならないと考えてしまう。
正義を信じ、組織をつくってしまうと、かくも巨大な間違いを犯してしまうのが人間なのである。間違いを犯すから深みが増す、人間の可能性を高めるとは決して考えない。
なぜか。「正義は我にあり」「我々は間違えない」という神話の中に生きている方が楽だからだ。自分は間違っているのではないか、今の方針より、よりましな方法があるのではないか、と常に自分に問い続ける苦しみを味わわなくて済む。つまり、「無謬性」とは単なる精神的怠惰の表れでしかないのだ。他者を圧殺する巨大な権力を生む怠惰である。
【『「正義」を叫ぶ者こそ疑え』宮崎学(ダイヤモンド社、2002年)】
実は、ヤマダ電機は、12年だけでも、244億円の広告費を投入している大スポンサーなのだ。/ブラック企業大賞「ヤマダ電機」問題がマスコミで報道されない理由|LITERA/リテラ 本と雑誌の知を再発見 http://t.co/HFcwjFaK6X
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 10月 14
親父が高校生の頃、大石寺で泊まりがけの夏期講習会があったらしい。
参加当日まで○○時間の唱題
人間革命を読んでの感想文と、体験発表&決意発表などなど。
やってられんな、せっかくの休みに
— 学会4世 (@gakkai4sei) 2014, 7月 30
真の自己、アートマンは純粋の認識主体である以上「~ではない、~ではない」(ネーティ、ネーティ)という方法でしか表現できない。「~である」と表現すれば認識の対象へと下落してしまうからだ。
【心の哲学まとめWiki - ヤージュニャヴァルキヤ】
388 自己を制して、内に顧みて思い、心を外に放ってはならぬ(スッタニパータ)
— 仏陀 ブッダ ことば 仏教 (@Buddha_Words) 2014, 9月 27
「外に放つ」と“運動”になる。運動には必ず政治的な力学が働く。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 9月 29
「法」や「良識」よりも「信義」や「友情」を重んじる人々がいて、その彼らにとって「善悪」ならびに「正邪」は、法規範とはまったく無縁に、「敵か味方か」の区別だけで判断される。わかりやすい例では「任侠」の人たち。ワンピースの面々。チームのメンバー。運動の関係者。右にも左にもいる。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) 2014, 9月 28
「徒党」の中にいる人間は、知能指数が半分になる。
逆に言えば、徒党を組むことの快感は、思考停止の陶酔そのものだということです。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) 2014, 9月 28