2014-06-09

小林秀雄と池田大作

 小林秀雄と池田が会ったのは1971年(昭和46年)4月8日のこと。記憶が定かでなかったため検索したところ以下のページを見つけた。

池田教の塔婆供養?

 元情報は「やまちゃんのわが友に贈る: 慧光照無量 寿命無数劫 祈る - 名字の言」のようだ。2007年3月7日付聖教新聞に小林の記事(「名字の言」2007年4月1日)があるようだが見つからず。

 小林秀雄里見トン中村光夫とは錚々(そうそう)たる顔ぶれだ。確か小林から大石寺の桜を見たいとの連絡があり、急遽池田が案内したものであった。

 里見トンの親戚に当たる学会員とは有島重武だろう。

与謝野家と有島家に関する系図

 他にこんなページも発見した。

伊丹十三「最終楽章」(『ヨーロッパ退屈日記』)に出てくる放浪のピアノ弾きってこの人じゃないだろうか?

 失敗したな。有島さんの存命中に直接聞いておけばよかった。

 小林は後に池田の印象をこう語っている。

小林●新聞が公明党と共産党との握手というような事を言っているな。池田大作さんとは面識があるが、あの人には政治家肌という所があるな。天理教の中山正善さんも知っているが、あの人とは違った感じだな。中山みきという人は宗教家として天才だと思っているが、その血を受けた感じがしたな。

【『小林秀雄全作品 26 信ずることと知ること』小林秀雄(新潮社、2004年)】

 この部分については新刊の『直観を磨くもの 小林秀雄対話集』にも収められている。小林はとにかく遠慮を知らぬ男で、酔っ払って正宗白鳥に絡んだり、対談で柳田國男を泣かせたりしている。たとえ相手が牧口や戸田であったとしても物怖じすることはなかったことだろう。年齢的には戸田より2歳若い。

 果たして小林は大石寺の桜をどのように見たことだろう。その手掛かりをひとつ示しておこう。

 諸君はこのごろ染井吉野という種類の桜しか見ていないから、桜は花が先に咲いて、あとから緑の葉っぱが出ると思っているでしょう。あれは桜でも一番低級な桜なのです。今日の日本の桜の80パーセントは染井吉野だそうです。これは明治になってから広まった桜の新種なので、なぜああいう種類がはやったかというと、最も植木屋が育てやすかったからだそうで、植木屋を後援したのが文部省だった。小学校の校庭にはどこにも桜がありますが、まあ、あれは文部省と植木屋が結託して植えたようなもので、だから小学校の生徒はみなああいう俗悪な花が桜だと教えられて了(しま)うわけだ。

【『学生との対話』小林秀雄:国民文化研究会・新潮社編(新潮社、2014年)】

 小林秀雄は美に対して一切の妥協を許さなかった人物だ。文学や美術だけではなく科学においても鋭い知見を示した。1948年(昭和23年)に湯川秀樹と対談しているが、この当時において量子物理学を正しく把握していた。