2016-11-26

フィデル・カストロが逝去 11月25日

2016-11-20

任用試験 日顕宗を破す


 だったら、てめえが対論してみせろや。口舌の徒が支配する創価学会となってしまった。以前、某副会長から「法華講の樋田が来て困っている」と相談されたことがある。上の連中は誰一人として手本を示さない。所詮、口先だけの正義である。

「種種御振舞御書」の真偽について

 日蓮は幼若の者なれども、法華経を弘むれば釈迦仏の御使ひぞかし……教主釈尊の御使ひなれば天照太神・正八幡宮も頭をかたぶけ、手を合はせて地に伏し給ふべき事なり……かゝる日蓮を用ひぬるともあしくうやまはゞ国亡ぶべし……此の国の亡びん事疑ひなかるべけれども、且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ、今までは安穏にありつれども、はうに過ぐれば罰あたりぬるなり

【「種種御振舞御書」平成新編 1066頁

 縦書きで読みやすいため平成新編(日蓮正宗)のリンクを貼っておく。遺文に関しては創価学会よりも意欲的な選別が行われており、好ましい態度であると思う。

『平成新編日蓮大聖人御書』の編纂について:教学部長 大村寿顕

 本抄の真偽は未決である。勝呂信静〈すぐろ・しんじょう〉立正大学名誉教授が、「真撰であることは疑ないように思われる」としながらも、浅井要麟〈あさい・ようりん〉が説く偽作説を紹介している。

 本御書の叙述においては、聖人が法華経の行者として自己の抱負・威嚴・矜持を語られる態度が、聖人みずからの口吻でなくて、聖人を崇敬するものが若干の主観を交えて聖人に代って大言壮語するという態度が見える。また誇張せられた事蹟・奇蹟に関する記述が多く、そのうちあるものは、他の確実視される御書における記述と齟齬している。また所々に芝居がかった記述が見られるが、これも聖人の人格にふさわしくないように見受けられる。これらの事がらによっておそらく本御書は偽作であろうと推定されるのである。(以上取意。なお浅井教授は、日祐師の『本尊聖教録』以来もろもろの御書目録に本御書の名が記載されているが、御真蹟の存在については疑点があること、また御自分の経験からして、諸山において古来御真蹟と伝えられる御本尊・御筆蹟の中にはにわかに信じられないものが少からずあることなどを言われて、本御書の御真蹟が身延山に曽存したとしても、なお偽作の可能性のあることを示唆されている)。

「御遺文の真偽問題 その問題点への私見」勝呂信靜

 尚、「元々が四つの御書だったことは、寛文9年(1669年)に法華宗門書堂が出した、『刊本録内御書』によって確認できる」(『日蓮大聖人と最蓮房』北林芳典)との経緯についても以下の批判がある。

 種種御振舞御書は、その表現に奇跡性、潤色化などが随所に見られるところから、後の人の加筆もあるとされ、真蹟遺文と比べると、資料としての信憑性に欠けるうらみがあります。それでこの種種御振舞御書を日蓮の筆とせず、直弟子ないし孫弟子らによって欠かれた初期の伝記本と解釈する研究者(新倉善之氏)もいます。和島芳男氏(「叡尊・忍性」の作者)などは、「竜口法難そのものも史実として疑うべきところが少なくないようである」と述べておられます。今岡達音氏(「日蓮聖人伝批判」の作者)は、「忍性と日蓮の祈雨の勝負などはじめからなかった」という説を紹介しておられます。

Yahoo!知恵袋 zoprlmgeさん

 一方、創価学会の側では、

 大聖人の伝記・年表を正確にする等、文献学的見地においては、目的は達せられよう。だが、仏法者・信仰者の立場から、人生の糧として世に弘むべき日蓮仏法とするのならば、それだけで良いものか。
 すなわち、すべての御書が富木常忍のように、正しく後世に保管されてきたわけではない。他門では師匠が弟子に法門を伝持する際、御書の一部を切り取って渡し、証としたとの話も聞く。御書を粗雑に扱ってきた例である。
 ゆえに御真筆がなかろうとも、それだけで価値が無いと決めつけるわけにはいかない。御書全集の凡例の文を借りれば「現代教養に裨益なき」御書は除かれるべきであるが、「信行に資するものは之を取る」との態度でいなければならない。

種種御振舞御書・第十七章 身延山での御生活

 という相変わらずのスタンスで、信行に資すれば聖書さえも採用しかねない乱暴な態度となっている。大乗的なデタラメといってよい。

 昨今の創価学会の会則変更の源を探れば、この辺りの遺文に辿り着くように感じる。私が注目したのは「かゝる日蓮を用ひぬるともあしくうやまはゞ国亡ぶべし」との有名な一節である。はっきり言って「あんた何様?」という傲慢ぶりだ。まるで「俺様を見くびってんじゃねーぞ」と啖呵(たんか)を切るチンピラと変わらない。果たして尊敬を強要する仏がいるだろうか? あまりにも世俗的でみっともないと思う。

 あのドラマチックな展開を思えば「種種御振舞御書」は伝記小説と考えてよいのではないか。その昂奮は二十歳(はたち)の私に寸劇の台本を書かせたほどだ。日蓮自身のセリフが散りばめられているのも劇的効果と見なせる。

 文献学的なアプローチには限界があることだろう。やはり日蓮思想を体現した人物が登場しなければ真偽論争は線路のようにどこまでも続くことだろう。

 日蓮遺文に関しては「慶長本」の発見というニュースもあったので紹介しておく。

日蓮聖人遺文刊行の歴史に新視点 正確に伝える「慶長本」