2016-06-25

参院選情勢報道に重大な疑義 同一調査データ使い回しの可能性

やめた方がいいと思う

 ま、海外だから形から入るのも仕方ないか。尚、左後ろの奴がちゃんと覚えていなくて笑える。右後方のモニターにも注目。女子部がやっている動画もあったが画質が悪いので紹介しない。

2016-06-24

【世論調査】自公、改選の半数超える情勢

一切の服従は邪悪である

同一化

 見るからに優秀な女性はかつて大実業家の秘書をしていたと語った。彼女は仕事をやめ宗教に生き甲斐を見出す。素晴らしい教団と巡り合い、今ではその中心で活躍していた。彼女はクリシュナムルティの討論を聴いた。「一切の服従は邪悪(イーブル)である」との一言に心が乱された。彼女は反論すべくクリシュナムルティのもとを訪れた。

 啓発的な服従というものはない。一切の服従は邪悪なのである。権威は腐敗する。程度の高い場所においてであれ、あるいは思慮のない人々の間においてであれ。思慮のない人々は、誰か他人がいかに偉大で、気高かろうと、彼に従うことによって思慮深くされることはない。
「私は、世界的な意義を持つ何かのために、友達と協力して働くことが好きなのです。一緒に働くためには、私たちは、自分たちに対するある種の権威を必要とするのです」
 権威の、愉快または不愉快な強制的影響があるとき、それが協力といえるだろうか? あたなたは、そのときには、意識的または無意識的に、恐怖によって、報いへの望み、等々によって順応しているのではないだろうか? しかし、順応は協力だろうか? あなたに対する、好意的な、または専制的な権威があるとき、協力がありうるだろうか? 然り、協力は生まれ出る、罰や失敗への恐怖なしに、成功や認められることへの渇望なしに、ものごとそれ自体への愛があるときにのみ、協力は可能である。羨望や利欲心からの、個人的または集団的な支配、権勢への渇望からの自由があるときにのみ。

【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 2』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1984年/新装版、2005年)】

 細井vs.池田紛争で「創価仏法」という言葉を使えなくなった創価学会は、阿部vs.池田紛争以降、「学会正義」と表現するようになる。そこには「功徳の支配」が認められる。学会員の行動を支えているのは功徳への熱望であり、その裏側には功徳を失うことへの恐怖がある。学会活動と功徳は取り引きされる。功徳は形を変えた報酬であり賃金であり対価である。

 一切の服従が邪悪であるならば創価学会を去って日蓮正宗へ引っ越すことは、服従から服従への移動に過ぎない。「依存する自分」は変わらぬままだ。輪廻とは依存対象を乗り換え続ける無限の連鎖を意味する。我々は快適な乗り物を幸福と錯覚し、人生を決して自分の足で歩くことがない。何かを信じ、何かを頼り、何かにすがり、何かから安心を引き出すことが幸福と思い込んでいる。

 常に外側に向けられた視線を内側へと転換するのが本当の宗教である。組織に従うことや師匠の言いなりになることが宗教ではない。鎌倉時代を想像してみよう。人々の生活は土地に縛り付けられていた。当然ながら移動する自由も少ない。日蓮と会わずに死んでいった人々も多かったことだろう。日蓮からの手紙を受け取った人々もほんのわずかである。

「そういや、この間聞いたんだが、南無妙法蓮華経という題目を唱えると幸せになれるらしい」
 え、マジ?
「何でも鎌倉にいる偉いお坊さんがそう言ってるんだとさ」
 お寺にお参りしなくていいのか?
「寺はない。そのお坊さんは草庵に住みながら、幕府と喧嘩をしているんだとさ」
 まさにロックンロールだな。
「題目だけ唱えていれば、小うるさい戒律もいらないんだとさ」
 南無妙法蓮華経だけでいいんだな。合点承知。俺も今日からやってみよう。

 ここには組織も師匠もない。論理すらない。彼らは成仏できるのだろうか? 日蓮なら「できる」と即答することだろう。成仏に条件を付けるのは権威者だ。彼らは成仏を促すためではなく、自分に従わせる目的で言葉を巧みに操る。

 日蓮が死去すると6人の主要な高僧は袂(たもと)を分かつ。マンダラや遺文もぞんざいに扱われた。「外典に云く 未萠をしるを聖人という。内典に云く 三世を知るを聖人という」(撰時抄)。日蓮が弟子の分裂を予見していたとは思えない。

 主張する正義は売り物である。学会正義なる言葉はプロパガンダ(宣伝)であり、日蓮の教えよりも組織・機構を重視する。そして学会本部が罪を裁くという寸法だ。ま、共産主義の手法で教会を作り上げたようなものだ。

 ブッダが教えたのは「正しく生きる道」である(八正道)。布教の数を競い、聖教新聞の代金を立て替えてまで部数を維持し、三桁・四桁の寄付を自慢するのが正義ではない。功徳目当ての競争を仏道とは言わない。

 服従を命じる時、組織は邪悪と化す。「会長は偉い人なんです!」。ハ? 選挙で負けてばかりいて土下座させられてましたが。かつて師匠が「悪の4人組」と呼んだ人物がそんなに偉いのか?

 大きくなり過ぎた組織には権力が生まれる。創価学会が半分くらいの勢力になれば学会本部も謙虚になることだろう。

組織の論理

生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈2〉

2016-06-21

創価学会と共産党 激変する巨大組織のカネ・人・出世

週刊ダイヤモンド 2016年 6/25 号 [雑誌] (創価学会と共産党)

創価学会、国内低迷・海外躍進で「世界宗教化」に野心

『週刊ダイヤモンド』6月25日号の第1特集は、「創価学会と共産党 激変する巨大組織のカネ・人・出世」です。与野党それぞれのキャスティングボートを握る二大組織として、創価学会と日本共産党にスポットライトが当たっています。片や永田町で隠然たる影響力を発揮し、片や参院選での躍進が期待される。いずれも存在感を増しているようだが、組織内部に目を向けると、さまざまな“病魔”にむしばまれていました。二つの巨大組織の知られざる内幕を重層解剖しました。

2016-06-19

衝撃事件の核心



 1999年に東京の立川平和会館で女子職員(副本部長)が壮年職員(支部長)を刺殺未遂する事件が起こった。二人は不倫関係にあったが壮年職員から別れ話を持ちかけられ、女子職員は殺害を決意した。壮年は元男子部副書記長で創価班の中央幹部でもあった。人の心は意趣を返し、恨みを晴らす方向に動く。

 不倫や金銭貸借で役職を解任されることはあっても除名にはまず至らない。創価学会において除名は死刑も同然だ。当然ではあるが誤解に基き理不尽な除名を行った場合、確実にトラブルが発生する。もともと日蓮の教え自体にテロリスト傾向が強いため、昭和初期には一人一殺を唱えた血盟団事件(1932年)のようなことが起こり得る。誰かを除名にする際は殺されても構わないという覚悟をしておくべきだ。

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同一化

組織化された信念に属している者たち

 あなたはなぜ自分自身を、誰か他人や、あるいは集団、国と一体化させるのか? なぜあなたは、自分自身のことをクリスチャン、ヒンドゥー、仏教徒などと呼ぶのか? あるいはまた、なぜ無数にある党派の一つに所属するのか? 人は、伝統や習慣、衝動や偏見、模倣や怠惰を通じて、宗教的、政治的にあれこれの集団と自分自身とを一体化させる。この一体化は、一切の創造的理解を終焉させ、そうなれば人は、政党の首領や司祭、あるいは支持する指導者の意のままになる、単なる道具にすぎなくなってしまうのだ。

【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 1』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1984年/新装版、2005年)】

 師弟の一体化・同一化はバラモン教(古代ヒンドゥー教)以来の伝統である。神との同一化を説く宗教も多い。ナショナリズム・愛社精神・熱狂的なファンも同じ心理である。大企業の社員・エリート大学出身者・由緒正しい家柄など、自分以外の何かと同一化する人々は珍しくない。

 不思議なことだが人間には他人を支配したい欲望と共に、他人から支配されたい願望がある。「よき上司を望む」のがその証拠だ。スポーツの名門校などは支配の権化といってよい。どこかにマゾ的感覚がなければ厳しい訓練を耐え抜くことはできない。

 技術を習得する場合はもちろん指導者が必要だ。クルマの運転だって一人ではどうにもならない。だが生きる姿勢において他人や組織との同一化があれば、凡庸な自己は死ぬまで変わらない。

 同一化の底には安定への願望がある。自分を何かと同一化させることよりも自分自身を理解することが正しい。煩悩の火を吹き消すことが涅槃である。同一化は煩悩の火を盛んにしてしまう。

 これは滝川さんに対するメッセージである。はっきり言っておくが息子(元創価学会職員3名のブログ)の方はどうでもいい。私が心配するのはご母堂である。長年に渡り真面目に活動をしてきた人が苦しむのを黙って見過ごすわけにはいかない。

 まず問題を明らかにしよう。

 1.学会本部は正しく、息子が間違っている。
 2.学会本部は間違っており、息子が正しい。
 3.学会本部も息子も間違っている。

 事実はこのどれかである。被害者意識を払拭しなければ事実は見えてこない。しかも子息は既に創価学会本部を解雇されたばかりではなく、除名処分まで受けている。

 1の場合はあり得るが滝川さんがそれを受け入れることはないと判断して除外する。心情的には2のケースだと思われる。学会本部が間違っているのであれば学会をやめるべきだ。謗法の団体にいても功徳を受けることはないからだ。しかしそれでも尚、池田を師匠と仰ぐのであれば、創価学会をやめた上で池田の著作を読んで、信行に励めば十分だろう。ただし行き詰まるのは目に見えているが。どしどし折伏をして池田門下の輪を広げてゆけばいいのだ。これが小林節のいう「池田教」の正しいあり方だ。創価学会員からも賛嘆されるような人の輪を築くことは可能だろう。

 そして同一化は果てしない運動に駆られる。運動は一定の満足感を与えるが自分自身を見失わせる。変わらぬ自分が同じ反応を繰り返してゆくだろう。これを輪廻(りんね)と名づける。

一切の服従は邪悪である

生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈1〉