2016-06-17

滝川さんはどうすればよいのか?

6/4の話 小林節慶應義塾大学名誉教授のお話

 ま、創価学会首脳が末端幹部を相手に訴訟を起こす時代である。邪魔者を消す流れは今後ますます強まることだろう。

 少々心を痛めることはあっても多くの創価学会員にとっては所詮、他人事であろう。「学会本部の判断が間違えるわけがない」と無謬(むびゅう)性を信じる田舎者も山ほどいるに違いない。

 似たようなケースを私は解決したことがある。通常は地元組織が主導するのだが、滝川さんの場合は学会本部が判断を下し地元組織に下達(かたつ)されている。これを引っ繰り返すのは会長にチャンネルを持つ人物でも不可能だろう。しかも学会本部の判断の根拠が地元組織に伝えられた節が窺えない。

「今、お母さん(滝川光子さん)から重い話を伺った。私が、彼ら3名の立場だったら、やることははっきりしている。私が正しいと思う池田教を設立する。巨大化して、官僚化した組織と戦うのは人生のムダ。日蓮聖人だって、あんなに大きくなった身延を捨てた。葬式は死人に任せろという言葉もある。そんな官僚化した組織と戦うのは人生のムダ」――小林節のアドバイスは正鵠(せいこく)を射ている。

 組織悪と戦うのは一筋縄ではゆかない。「喧嘩のやり方」も知らずに正義だけ叫び、結果的に自分まで火だるまになるような連中が多い。小林の鋭さは「池田教」の一言に表れている。

 信心の目的は成仏することにある。本来であれば日蓮が説いた通りに修行すればいいわけだが、創価学会はここに師弟論を盛り込んでしまった。つまり「日蓮が説いた教え」を解説する人物が必要であり、この人物に付き従わなければ日蓮の教えを理解することはできない。で、挙げ句の果てには日蓮よりも師匠の方が重くなってしまった。

 滝川さんが池田教であり続ける限り、悩みが解決することはないだろう。「池田先生は正しい」と思うのは自由だ。しかし会ったこともない人物が正しいかどうかはわからない。その意味から申せば、日蓮もまた同様である。

 人は指導者(グル)への依存がある限り自由になれない。もっとはっきり言おう。日蓮への依存、池田への依存、マンダラへの依存が成仏に至ることはない。依存はどこまで行っても依存である。それゆえブッダは「犀(さい)のようにただ独り歩め」(※一般的な「犀の角」は誤訳)と教えたのだ。

組織化された信念に属している者たち