2016-06-24

一切の服従は邪悪である

同一化

 見るからに優秀な女性はかつて大実業家の秘書をしていたと語った。彼女は仕事をやめ宗教に生き甲斐を見出す。素晴らしい教団と巡り合い、今ではその中心で活躍していた。彼女はクリシュナムルティの討論を聴いた。「一切の服従は邪悪(イーブル)である」との一言に心が乱された。彼女は反論すべくクリシュナムルティのもとを訪れた。

 啓発的な服従というものはない。一切の服従は邪悪なのである。権威は腐敗する。程度の高い場所においてであれ、あるいは思慮のない人々の間においてであれ。思慮のない人々は、誰か他人がいかに偉大で、気高かろうと、彼に従うことによって思慮深くされることはない。
「私は、世界的な意義を持つ何かのために、友達と協力して働くことが好きなのです。一緒に働くためには、私たちは、自分たちに対するある種の権威を必要とするのです」
 権威の、愉快または不愉快な強制的影響があるとき、それが協力といえるだろうか? あたなたは、そのときには、意識的または無意識的に、恐怖によって、報いへの望み、等々によって順応しているのではないだろうか? しかし、順応は協力だろうか? あなたに対する、好意的な、または専制的な権威があるとき、協力がありうるだろうか? 然り、協力は生まれ出る、罰や失敗への恐怖なしに、成功や認められることへの渇望なしに、ものごとそれ自体への愛があるときにのみ、協力は可能である。羨望や利欲心からの、個人的または集団的な支配、権勢への渇望からの自由があるときにのみ。

【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 2』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1984年/新装版、2005年)】

 細井vs.池田紛争で「創価仏法」という言葉を使えなくなった創価学会は、阿部vs.池田紛争以降、「学会正義」と表現するようになる。そこには「功徳の支配」が認められる。学会員の行動を支えているのは功徳への熱望であり、その裏側には功徳を失うことへの恐怖がある。学会活動と功徳は取り引きされる。功徳は形を変えた報酬であり賃金であり対価である。

 一切の服従が邪悪であるならば創価学会を去って日蓮正宗へ引っ越すことは、服従から服従への移動に過ぎない。「依存する自分」は変わらぬままだ。輪廻とは依存対象を乗り換え続ける無限の連鎖を意味する。我々は快適な乗り物を幸福と錯覚し、人生を決して自分の足で歩くことがない。何かを信じ、何かを頼り、何かにすがり、何かから安心を引き出すことが幸福と思い込んでいる。

 常に外側に向けられた視線を内側へと転換するのが本当の宗教である。組織に従うことや師匠の言いなりになることが宗教ではない。鎌倉時代を想像してみよう。人々の生活は土地に縛り付けられていた。当然ながら移動する自由も少ない。日蓮と会わずに死んでいった人々も多かったことだろう。日蓮からの手紙を受け取った人々もほんのわずかである。

「そういや、この間聞いたんだが、南無妙法蓮華経という題目を唱えると幸せになれるらしい」
 え、マジ?
「何でも鎌倉にいる偉いお坊さんがそう言ってるんだとさ」
 お寺にお参りしなくていいのか?
「寺はない。そのお坊さんは草庵に住みながら、幕府と喧嘩をしているんだとさ」
 まさにロックンロールだな。
「題目だけ唱えていれば、小うるさい戒律もいらないんだとさ」
 南無妙法蓮華経だけでいいんだな。合点承知。俺も今日からやってみよう。

 ここには組織も師匠もない。論理すらない。彼らは成仏できるのだろうか? 日蓮なら「できる」と即答することだろう。成仏に条件を付けるのは権威者だ。彼らは成仏を促すためではなく、自分に従わせる目的で言葉を巧みに操る。

 日蓮が死去すると6人の主要な高僧は袂(たもと)を分かつ。マンダラや遺文もぞんざいに扱われた。「外典に云く 未萠をしるを聖人という。内典に云く 三世を知るを聖人という」(撰時抄)。日蓮が弟子の分裂を予見していたとは思えない。

 主張する正義は売り物である。学会正義なる言葉はプロパガンダ(宣伝)であり、日蓮の教えよりも組織・機構を重視する。そして学会本部が罪を裁くという寸法だ。ま、共産主義の手法で教会を作り上げたようなものだ。

 ブッダが教えたのは「正しく生きる道」である(八正道)。布教の数を競い、聖教新聞の代金を立て替えてまで部数を維持し、三桁・四桁の寄付を自慢するのが正義ではない。功徳目当ての競争を仏道とは言わない。

 服従を命じる時、組織は邪悪と化す。「会長は偉い人なんです!」。ハ? 選挙で負けてばかりいて土下座させられてましたが。かつて師匠が「悪の4人組」と呼んだ人物がそんなに偉いのか?

 大きくなり過ぎた組織には権力が生まれる。創価学会が半分くらいの勢力になれば学会本部も謙虚になることだろう。

組織の論理

生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈2〉