2016-05-19

二元性を超える

忘れ得ぬ交流
・二元性を超える

 スピリチュアル系でノンデュアリティ(非二元)という言葉が持てはやされている。かつてニューエイジの特徴としてホリスティック(全体論的)とトランスパーソナル(超個的)が挙げられた(『現代社会とスピリチュアリティ 現代人の宗教意識の社会学的探究』伊藤雅之、2003年)が、同じ種類の一元論と考えてよかろう。特に異論はないのだが、その雰囲気に嫌悪感を覚える。目の前で「ノンデュアリティ」と言われたら、唾を吐きかけるかもしれない(笑)。

 先に紹介した若者の経験は二元性を超えた瞬間をありありと伝えるものだ。不思議なことだが彼のお母さんもまた「目覚めた人」であった。

 思考が人と人とを分断する。信念・政治信条・愛国心そして宗教が更に分断を助長する。人はアイデンティティを確保する目的で集団に参加する。組織にいれば安全だ。何にも増して自分という存在を認めてもらえる。そのようにして人は組織に依存し、今度は組織が人を束縛する。

 クリシュナムルティは二元性を超えるあり方を「ただありのままを見よ」と教えた。我々の眼は条件づけで歪んでいる。見た瞬間に価値判断が加わる。それまで目の不自由であった人が初めて見るように見ることは難しい。

 カルマは時間の過程であり、現在を通って未来へと動く過去である。この鎖は思考の運動なのである。思考は時間の結果であり、そして、思考の過程がやんだときにのみ、不可測なるもの、永遠なるものがありうる。精神の静謐(せいひつ)は、何らかの修行または規律によって引き起こすこと、もたらすことはできない。もし精神が静め【られる】なら、そのときには、何が生まれ出ようと、それは単なる自己投影物、記憶の応答にすぎない。その条件づけの理解、思考と感情としてのそれ自身の応答についての無選択の気づきとともに、精神に静謐が生まれ出る。このカルマの鎖の打破は、時間の問題ではない。なぜなら、時間によっては、永遠なるものはないからである。

【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 2』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1984年/新装版、2005年)】

 サンニャーシ(修行僧)がクリシュナムルティにカルマ(業)を問う。「このカルマの鎖の打破」とは因果の打破であろう。因果応報は時間の過程であるが、因縁生起は瞬間である。

 科学にとっても宗教にとっても最後の課題は「時間」であるというのが私の持論である。科学は相対性理論や量子力学などを通してその真相に迫りつつある。既に時間は連続するものとして考えられていない。時間は5.391×10の-44乗秒(プランク時間)という粒が切り取り線のように断続しながら進む。

 時速100kmで走るクルマ同士が擦れ違えば、相手のクルマは200kmの速度として勘定される。時速100kmで走るクルマが同じ方向を走ればスピードはゼロである。ところが光の速度は擦れ違おうと、同じ方向に向かおうと秒速30万kmで変わることがない。16歳のアインシュタインはふとこう考えた。「もしも自分が光の速さで飛んだら、鏡に顔は映るのだろうか?」と。顔が反射する光が鏡に届こうとしても、乗っている光の速度で相殺(そうさい)されるのかどうか、との疑問である。それから10年後、26歳となったアインシュタインは光速度不変の原理から特殊相対性理論を導き出す。

 光に時間は存在しない。光は年もとらない。光は常に新しい。ここに瞑想・観察・止観を解く鍵がある。悟りとは時間における特異点なのだろう。

 我々の網膜には光の反射が映る。そうではなく自分自身が光となって対象を捉えるなら「見るものは見られるもの」となる。二元性を超えるとはこのことである。

現代社会とスピリチュアリティ―現代人の宗教意識の社会学的探究生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2―クリシュナムルティの手帖より