2014-11-15

死ぬって何?

 南直哉〈みなみ・じきさい〉も脂が乗ってきたな。


2014-11-14

橋下氏「公明にやられたままで終われぬ」出馬可能性否定せず 市長職投げ出しも「致し方ない」

公明、政活費681万円返還…東大阪市議会

 大阪府東大阪市議会(定数42、欠員2)の政務活動費(政活費)の不適切支出問題で、最大会派の公明党議員団(12人)は10日、2009~13年度の5年間に議員団全員が受け取った政活費のうち、計681万円を不適切に計上していたとして、全額を返還したと発表した。

 議員団団長で議長の平田正造市議(64)は同日、この問題の責任を取り、議長の辞職願を副議長に提出した。前議長が政活費の不適切支出を巡って議長を辞職したため、先月10日に議長に就いたばかりだった。

 議員団によると、12年8月、平田市議ら市議6人が東京都に出張した際、議会事務局から新幹線の乗車券など現金約30万円を受け取ったにもかかわらず、政活費として24万円を計上し、旅費を二重に受領するなどしていた。家族名義のクレジットカードで支払ったガソリン代を政活費に計上した議員もいたという。

 市議会では10月以降、政活費の不適切支出が相次いで発覚し、7会派19人が2235万円を返還したが、公明党議員団は「不適切支出はない」としていた。

 幹事長の川光英士市議(61)は「領収書まではチェックしておらず、支出の一覧を見て適切だと判断した」と釈明した。

YOMIURI ONLINE 2014年11月11日

2014-11-13

吉松育美ストーカー事件

ある事件とその背景。

→「この女癖の悪い創価大学卒、元TBS社員の石井〔薬物事件で首)がいう通りしないと恫喝、ストーカー行為を続けた」は、「石井」ではなく「谷口元一」の間違いだろう。

ロンブー淳も吉松育美と同じく谷口元一に芸能界から消されそうになっていた!?マットテイラー、K-1石井館長との関係とは!?
創価「隠れ広告塔」にご用心!K1「石井受刑者収監」一考!
井川遥も被害者だった!谷口元一氏の過去の女性遍歴と嫌がらせが酷い。

教義変更の失敗

 阿部vs.池田紛争を経て創価学会は日蓮正宗と袂(たもと)を分かつ。創価学会は本尊授与を行うことができなくなった。その後、浄圓寺 (じょうえんじ)の日寛書写の本尊をコピーすることで本尊授与が復活した。当時、会長であった秋谷栄之助は「御本尊はみな同じであり、今までの(日達、日顕書写)御本尊に功徳があるのは当然である」旨を語った。ところが創価学会は新入会者に本尊が行き渡ると、阿部日顕書写の本尊を取り替えさせるという行為を組織的に遂行。数年後、秋谷は「日顕の本尊は謗法である」と前言を翻した。これが致命的な失敗であったことは言うまでもない。私は当時、「創価学会としての感情的な問題だ」と旧ブログに書いた覚えがある。もちろんそんな言い方で擁護できる問題ではない。

 ここには本尊開眼と同じ問題がある。「開眼前と開眼後に何が変わったのか?」と同じく「謗法でない時と謗法になった時と何が変わったのか?」というテーマだ。しかも謗法と言いながら、法基準ではなく組織権力が謗法の認定基準となっている。

 かつて創価学会はブッダをも否定していた。釈迦仏法を「古いカレンダー」と称し、現代に効力はないと言っていたのだ。白法隠没に対する誤解であったわけだが、学会員はものを考える力を奪われているため誰一人疑問に抱くことはなかった。

 また創価学会は五座三座の勤行を方便品・自我偈に省略した。これまた教義変更といってよい。多くの学会員は心ひそかに「ラッキー♪」と思った(笑)。私もその一人だ。柏原ヤスは言った。「池田先生は間違っている。戸田先生は五座三座は絶対だとおっしゃっていた。勤行を省略するなんてとんでもない」と。

 今回の教義変更は戸田門下生が絶滅したことを見計らった上での措置だろう。ま、あと30~40年もすれば池田門下生もいなくなる。その時どのような教義変更をするのかね?

「もうそろそろ、マスゲームの一員であることに喜びを覚えるのは卒業して、自分で何か表現したらどうだ?」と私は言いたい。




2014-11-11

教義変更

 妙にアクセス数が増えているのでおかしいなと思っていたら、創価学会の教義が変わったらしいね。迷える子羊どもが検索しまくっている様子が目に浮かぶよ。法主を否定し、本門戒壇と称する本尊を否定する姿は、まさしく「諸宗は本尊にまどえり」(開目抄)といった様相を呈している。既に亡くなった創価学会員が浮かばれない。教義の根幹をこれほどやすやすと改変してしまうのだから、やがては三代会長も否定されることだろう。あんたが否定されるのも時間の問題だ。総務会なるものが何人で構成されているか知らないが、この過半数を買収できればいつでも教義を変えることができるわけだ。教義を変えても微動だにしないということは教義を信じていない証拠である。

2014-11-10

地衣類の一生に意味はあるか?

 過酷な環境に強いものの例にもれず、地衣類は生長が遅い。シャツのボタンほどの面積を埋め尽くすのに半世紀以上かかることもある。そのため、デイヴィッド・アッテンボローは、地衣類がディナー用の大皿くらいの面積まで広がるには「数千年とまではいかなくても数百年はかかるだろう」と記している。これ以上に不活発な存在は想像しがたい。アッテンボローは、「地衣類はただ単にそこにある。そして、この上なく単純なレベルの生命体でさえ、明らかに自己のためだけに発生するという感動的な事実を証明している」と付け加える。

【『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン:楡井浩一〈にれい・こういち〉訳(NHK出版、2006年/新潮文庫、2014年)】

 朗報である。絶版になっていたが新潮文庫から復刊された。地衣類は菌類と藻類の共生体だ。産業革命以降、人類はスピードを奨励してきたわけだが、これほど生長に時間のかかる地衣類に存在意義はあるのだろうか? そう考えてしまうのは我々が人の一生というタイムスパンでしかものを考えることができないためだ。我が子を喪(うしな)って悲嘆に暮れているうちに、やがて自分も死んでしまう。一生にはその程度の時間しかない。地衣類の存在意義を弱めているのは世界に対する貢献度の低さに由来しているのだろう。「じゃあ、お前はどの程度貢献しているんだ?」と言われれば心許ない限りである。つまり地衣類の存在に意味がないなら、我々の人生にも意味がないことになる。そして地衣類は意味を考えないが、我々は意味の虜(とりこ)になる。これが決定的な違いだ。人は意味を求めて自分探しをする。ま、日本人がそんな真似をするようになったのも最近のことだろう。少なくとも明治以前にそんな風潮はなかったはずだ。個人という言葉は「individual」の翻訳語である。柳父章〈やなぶ・あきら〉が社会を構成しているのは個人であり、それ以前の日本には身分としての存在はあっても個人という概念はなかったと指摘している(『翻訳語成立事情』)。個人とは「神に対してひとりでいる人間」を意味する。ってことはだよ、脳内で一神教の神が生まれたと同時に個人が誕生したわけだ。結局、神とは個人のことだったのだろう。一神教の場合、双方向性を欠いているためその自覚に至ることは難しい。仏教的に考えると生きることに意味はない。ただ生を味わいながら生きることが正しい。

人類が知っていることすべての短い歴史(上) (新潮文庫)人類が知っていることすべての短い歴史(下) (新潮文庫)翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)