2014-11-16

本尊模刻事件から考える会則変更

 創価学会はかつて8体の本尊を模刻した。阿部vs.池田紛争以降、創価学会は模刻を引き受けた赤沢朝陽社長の赤沢猛に証言させ、「細井日達の失念」が事件の真相であったと暴露した。

「地涌」第699号  1993年10月1日
日顕宗の“御本尊謹刻”への中傷はデタラメ(「聖教新聞」平成5年9月30日付より抜粋)

 まず、これらの証言が記録に基づくものかどうかが不明である。記憶だけで何月までは普通憶えていないことだろう。

 赤沢証言によれば、

・昭和48年(1973年)暮れに学会本部から彫刻依頼の打診。
・昭和49年(1974年)1月に池田より直接依頼。この時、細井日達は了承済みと伝えられる。
・昭和49年(1974年)秋に細井日達より本尊模刻の件を尋ねられる。

 藤本メモについては日蓮正宗も否定はしていない。というよりも、この時点で初めて創価学会から板本尊の要請があったとしている。「7. 本部三階の御本尊の件 ―板御本尊にしたい」――これを受けて細井日達は創価学会からの御本尊下附願いを待った。ところが創価学会は細井から許可が下りたものとして、昭和50年(1975年)1月1日に創価学会本部に安置してしまった。

聖教新聞画像/「よくわかる本尊模刻問題」より

 その後「賞本門事戒壇正本堂建立 昭和四十九年一月二日」の模刻本尊が昭和49年4月に制作されていたことが判明する。

「実は『本門事の戒壇は正本堂』という御本尊がある。猊下と私だけの唯仏与仏だ。板本尊で文化会館の七階の座敷に安置してある」(昭和四十八年十二月二十九日の第二回御義口伝受講者大会

 昭和53年9月2日の連絡会議の記録の中に、学会が模刻した数体の板本尊の処置について御指南を求めたのに対し、日達上人は池田会長に、「そんなものは人目にさらすな。金庫の中にでもしまっとけ」と叱責された(本尊模刻事件の真相

 双方の言い分が完全に異なる。日蓮正宗側の主張は以下を参照せよ。

本尊模刻に関するQ&A
〝日達上人違背の大罪人 本尊模刻事件を闇に葬ったのは阿部師〟の誑言を断破す
本尊模刻(『慧妙』H14.3.1ほか編集)

 私が知っている事実を一つだけ挙げよう。紙幅の創価学会常住本尊は「それほど傷(いた)んではいない」。間近で見たことがあるから間違いない。黄色いシミが出ている程度である。

 結局は「板マンダラを制作したが、大石寺に収めた」という事実だけが残る。

 今回の会則変更に照らせば、板マンダラ制作は創価学会独立の布石であったとしか考えようがない。つまり信濃町を聖地化し、ゆくゆくは御開扉に伴う参拝料を徴収するシステムを構築するのではあるまいか。JR信濃町駅から学会本部まで両側に売店が立ち並び、味噌玉でも売るようになったら濡れ手で粟(あわ)という寸法だ。