2014-11-10

地衣類の一生に意味はあるか?

 過酷な環境に強いものの例にもれず、地衣類は生長が遅い。シャツのボタンほどの面積を埋め尽くすのに半世紀以上かかることもある。そのため、デイヴィッド・アッテンボローは、地衣類がディナー用の大皿くらいの面積まで広がるには「数千年とまではいかなくても数百年はかかるだろう」と記している。これ以上に不活発な存在は想像しがたい。アッテンボローは、「地衣類はただ単にそこにある。そして、この上なく単純なレベルの生命体でさえ、明らかに自己のためだけに発生するという感動的な事実を証明している」と付け加える。

【『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン:楡井浩一〈にれい・こういち〉訳(NHK出版、2006年/新潮文庫、2014年)】

 朗報である。絶版になっていたが新潮文庫から復刊された。地衣類は菌類と藻類の共生体だ。産業革命以降、人類はスピードを奨励してきたわけだが、これほど生長に時間のかかる地衣類に存在意義はあるのだろうか? そう考えてしまうのは我々が人の一生というタイムスパンでしかものを考えることができないためだ。我が子を喪(うしな)って悲嘆に暮れているうちに、やがて自分も死んでしまう。一生にはその程度の時間しかない。地衣類の存在意義を弱めているのは世界に対する貢献度の低さに由来しているのだろう。「じゃあ、お前はどの程度貢献しているんだ?」と言われれば心許ない限りである。つまり地衣類の存在に意味がないなら、我々の人生にも意味がないことになる。そして地衣類は意味を考えないが、我々は意味の虜(とりこ)になる。これが決定的な違いだ。人は意味を求めて自分探しをする。ま、日本人がそんな真似をするようになったのも最近のことだろう。少なくとも明治以前にそんな風潮はなかったはずだ。個人という言葉は「individual」の翻訳語である。柳父章〈やなぶ・あきら〉が社会を構成しているのは個人であり、それ以前の日本には身分としての存在はあっても個人という概念はなかったと指摘している(『翻訳語成立事情』)。個人とは「神に対してひとりでいる人間」を意味する。ってことはだよ、脳内で一神教の神が生まれたと同時に個人が誕生したわけだ。結局、神とは個人のことだったのだろう。一神教の場合、双方向性を欠いているためその自覚に至ることは難しい。仏教的に考えると生きることに意味はない。ただ生を味わいながら生きることが正しい。

人類が知っていることすべての短い歴史(上) (新潮文庫)人類が知っていることすべての短い歴史(下) (新潮文庫)翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)