2014-10-01

戸田城聖の悟りに関する覚え書き その二

戸田城聖の悟りに関する覚え書き その一

 思索をもう少し伸ばしておこう。

 戸田城聖は獄中で無量義経の「三十四の非ず」を身で読んで悟りに達したとされている。相前後して「我、地涌の菩薩なり」との自覚に至る。創価学会ではこの二つを戸田の悟達としている。この思想が池田に受け継がれ「生命尊厳」を標榜するようになる。生命至上主義・生命原理主義と言い換えてもよかろう。

『無量義経』は中国で作られた偽経(菅野博史)

「つまり、中国人仏教徒の誰かが、『法華経』の前に説かれたとされる「大乗経名無量義教菩薩法仏所護念」に仮託して『無量義経』を作ったということになる」と菅野博史は書いているが、そんな浅いレベルではないだろう。これはウパニシャッド最大の哲人・ヤージュニャヴァルキヤからの盗作なのだと私は踏んでいる。ヤージュニャヴァルキヤは「非ず非ず」と否定することでアートマン(真我)を表現した。だから創価学会が真我主義に陥るのは必然であったのだ。

 真の自己、アートマンは純粋の認識主体である以上「~ではない、~ではない」(ネーティ、ネーティ)という方法でしか表現できない。「~である」と表現すれば認識の対象へと下落してしまうからだ。

心の哲学まとめWiki - ヤージュニャヴァルキヤ

 戸田は質問会で「亡くなった自分の娘に会ったような気がする」との旨を語っている。つまり戸田は自ら常見の立場を表明したに等しい。この私の批判は当然、日蓮に対しても向けられる。科学的に見れば証明できない以上、現代においては断見のスタンスをとるのが常識的だと思うが、ブッダは不断不常の中道を歩む。

 要は死後の生命が「有る」と考えても「無い」と考えても人間の悩みが尽きることはないのだ。それゆえに無記(沈黙)なのである。

 そして何にも増して問題なのは創価学会員の置かれた状況が生命尊厳とは無縁であることだ。もう戯言(たわごと)はいいから、まず配達員の賃金を上げろ。