2014-10-17

「正義」を叫ぶ者こそ疑え

 間違わない組織なんてない。それは革命党でも会社でも宗教でも同じである。左翼の諸党派などは、そもそもの出発点から間違っているかも知れないのだ。しかし、自分たちは正しい、党は間違えない、それに反する者は反党分子である。正しい党員に革命的に鍛えあげるか、革命的に処分しなければならないと考えてしまう。
 正義を信じ、組織をつくってしまうと、かくも巨大な間違いを犯してしまうのが人間なのである。間違いを犯すから深みが増す、人間の可能性を高めるとは決して考えない。
 なぜか。「正義は我にあり」「我々は間違えない」という神話の中に生きている方が楽だからだ。自分は間違っているのではないか、今の方針より、よりましな方法があるのではないか、と常に自分に問い続ける苦しみを味わわなくて済む。つまり、「無謬性」とは単なる精神的怠惰の表れでしかないのだ。他者を圧殺する巨大な権力を生む怠惰である。

【『「正義」を叫ぶ者こそ疑え』宮崎学(ダイヤモンド社、2002年)】

 宮崎学はやくざ者の倅(せがれ)で、学生運動の武闘派左翼、解体屋、地上げ屋、週刊誌記者といった遍歴の持ち主だ。彼はたぶん昭和30~40年代の創価学会に郷愁のような感情を抱いている。もっと言ってしまえば、そこに共産党の理想的な姿を見ている。石牟礼道子〈いしむれ・みちこ〉の「今まで水俣にいて考えるかぎり、宗教も力を持ちませんでした。創価学会のほかは、患者さんに係わることができなかった」(『石牟礼道子対談集 魂の言葉を紡ぐ』)という発言と似た視点を持っている。だからこそ現在の創価学会と共産党を批判する。池田に直接手紙を送っているほどだ。行間から大衆運動のシンパシーが立ち上がってくる。創価学会に対する理解は浅いが、主張そのものは極めて真っ当な正論である。共産党と創価学会は異母兄弟のようなものだと私は考えている。それゆえ共産党が創価学会化し、創価学会が共産党化することは必至であるといえよう。ここらあたりに政治と宗教を解くヒントがあるように思う。正義とは「教条」(ドグマ)である。そして正義が人を裁くのだ。

「正義」を叫ぶ者こそ疑え