2014-04-05

殺人を奨励する日蓮

 外典に云く 未萠をしるを聖人という。内典に云く 三世を知るを聖人という。余に三度のかうみやう(高名)あり。一には去し文応元年[太歳庚申]七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時、宿谷の入道に向て云く 禅宗と念仏宗とを失ひ給ふべしと申させ給へ。此の事を御用ひなきならば、此の一門より事おこりて他国にせめられさせ給ふべし。二には去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向て云く 日蓮は日本国の棟梁也。予を失ふは日本国の柱橦を倒すなり只今に自界反逆難とてどしうちして、他国侵逼難とて此の国の人々他国に打ち殺さるのみならず、多くいけどりにせらるべし。建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、彼等が頚をゆひのはまにて切らずは、日本国必ずほろぶべしと申し候ひ了んぬ。第三には去年[文永十一年]四月八日左衛門尉に語て云く 王地に生まれたれば身をば随へられたてまつるやうなりとも、心をば随へられたてまつるべからず。念仏の無間獄、禅の天魔の所為なる事は疑ひなし。殊に真言宗が此の国土の大なるわざわひにては候なり。大蒙古国を調伏せん事真言師には仰せ付けらるべからず。若し大事を真言師調伏するならば、いよいよいそいで此の国ほろぶべしと申せしかば、頼綱問て云く いつごろ(何頃)かよせ候べき。日蓮言く 経文にはいつとはみへ候はねども、天の御けしきいかりすくなからずきうに見へて候。よも今年はすごし候はじと語りたりき。[p1053-1054]
 此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず。只偏に釈迦如来の御神我が身に入りかわせ給ひけるにや。我が身ながらも悦び身にあまる。法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり。経に云く_所謂諸法如是相と申すは何事ぞ。十如是の始めの相如是が第一の大事にて候へば、仏は世にいでさせ給ふ。 ̄智人は起をしる、蛇みずから蛇をしるとはこれなり。衆流あつまりて大海となる。微塵つもりて須弥山となれり。日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一・一微塵のごとし。法華経を二人・三人・十人・百千万億人唱え伝うるほどならば、妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるべし。仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ。

撰時抄 建治元年(1275.06) [p1003]
釈子 日蓮述

【ページ数はそのままとした。 日蓮聖人御遺文「真蹟遺文」を参照】

創価学会版撰時抄講義:第32章 聖人たるを広く釈す

 日蓮といえども鎌倉時代の人物であった。「建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、彼等が頚をゆひのはまにて切らずは、日本国必ずほろぶべし」と平頼綱に進言した事実が書かれている。

 日蓮は竜の口で処刑されそうになったその日に頼綱宛の書状をしたためている(「一昨日御書」真蹟なし)。そこでは「一昨日見参に罷入(まかりいり)候の条悦び入り候」と前々日の頼綱との会談を喜び、「抑(そもそも)貴辺は当時天下の棟梁なり何ぞ国中の良材を損せんや、早く賢慮を回(めぐ)らして須く異敵を退くべし」と結ぶ。頼綱は鎌倉軍事政権の警察庁長官のような立場であった。撰時抄と「棟梁」の言葉がダブっているのが目を引く。

 当時の法意識(律令制度)からすれば日蓮の言動はさほど過激なものではなかったことだろう。ただし二日後に自分の頸(くび)が斬られそうになったわけだから頼綱との会談に迎合の匂いは嗅ぎ取れない。しかも日蓮にはその覚悟があった節も窺える。

 だが21世紀にこの文章を読むとどうか? 日蓮は元寇を予言したものの、明治期以降の時代には思いが届かなかったようである。その意味からいえば殺人を奨励し、処刑を促す日蓮に「釈子」(釈迦の弟子)たる資格はないと思われる。大衆部(だいしゅぶ)の毒が露見したようなテキストである。

 布教の奨励は必ずプロパガンダとなる。日蓮の終生はあまりにも政治的だ。しかも結果的には摩擦や軋轢(あつれき)を生んだだけで功を奏したとは言い難い。言論の自由にはもちろん布教の自由も含まれる。ただ往々にして布教は他人の「沈黙の自由」を犯す場合が多い。

 日蓮系教団の数は多いが、トップ同士が公場対決する教団は見当たらない。言っていることとやっていることが全然違う。

立正安国論に見る日蓮のカルト性
立正安国論要約(by freeさん)