2013-05-25

30歳の思い出

 30歳で男子部本部長となった。私のアイディアが最も横溢(おういつ)した時機であった。本部青年部総会を開催し、セトさんに講演を依頼した。そのセトさんをして「あれだけの劇を見た後で話しにくいんですが……」と言わさしめたのが私の自慢である。もちろん台本は私が書いた。内容は水戸黄門のパロディであった。

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つぎはぎ仏教入門 宇宙の起源 (「知の再発見」双書)

世界を騙しつづける科学者たち〈上〉 世界を騙しつづける科学者たち〈下〉 ホーキング、未来を語る (ソフトバンク文庫)

情報操作「7つの原則」


(1)攻撃相手にレッテルを貼る。
(2)スローガンで自国の正義を煽り立てる。
(3)権威付けで、正当性を強調する。
(4)権威者・カリスマに協賛(ステマ)してもらう。
(5)自分たちが味方であると一体感を強調する。
(6)メリットを最大限に強調、デメリットは矮小化。
(7)これが流行っているとブームを作る。

2013-05-24

模倣に意味はない


 で、真理に近づいた人はどこにいるのだ? いるんだったら連れて来てもらおうか。私が相手になってやるよ。模倣で真理に近づけるのであれば、付法蔵の二十五人は百人、千人と連なるはずではないのか? しかも日蓮は「又付法蔵の二十五人は仏をのぞきたてまつりては、皆仏のかねて記しをき給へる権者なり」(真蹟)と断言しているのだ。

 また模倣とは何か? 聖教新聞の多部数購読や多額の負担を強いる財務、打ち合わせ、書類作り、会合に次ぐ会合……。これらのどこで仏法が語られているのか? そもそも誰の模倣なのか?

「成仏の道」など聞いたふうなことを言っているが成仏した人はどこにいるのか? 死相判定以外の成仏があるなら持って来いや、って話だわな。

 果たして模倣でイチローや三浦雄一郎になることができるだろうか? 模倣すればミケランジェロやダ・ヴィンチのような絵を描くことができるのか?

 10年、20年、あるいは30年以上も模倣をしてきて一つの創造もないとすれば、それは単なる物真似かごっこの世界であることを自覚すべきだろう。

 模倣によって悟りが得られることはない。模倣とは自分を特定の鋳型にはめ込む営みにすぎないからだ。

模倣

2013-05-23

先駆者は味方から背中を撃たれる


2013-05-22

社会と融合すれば、その社会を変革する力を失うというジレンマ


2013-05-21

儀式と共同体



 少し解説しておこう。宗教の始原を考えると祭儀や死者を送る行為の重要性が浮かんでくる。儀式は単なる形式というよりも手続きと考えるべきだろう。つまり共同体を支えているのは儀式(≒手続き)なのだ。これは現代社会においても何ら変わることがない。冠婚葬祭に始まり、卒業式、成人式、入社式、はたまた訴訟から役所の書類に至るまで儀式のオンパレードであるといってよい。

 一時期自由な葬儀のあり方が話題となったが、現在では簡素化を嘆く声も多い。悲嘆を確認し合う行為が共同性を支えているためであろう。

 儀式が完全に生活に溶け込んだものが礼儀である。多分かっぱ君の言いたかったことは、礼儀の意味や心を失えば儀礼と化すことへの懸念であったのだろう。

 儀式性と宗教性は一大テーマである。新しい形の「祭り」を創造しなければ、大衆は暴力に傾斜しやすくなることだろう。

化儀を考察するヒント
戒律の問題
進化宗教学、あるいは宗教工学に関する覚え書き

宗教を生みだす本能 ―進化論からみたヒトと信仰 儀礼 タブー・呪術・聖なるもの

2013-05-20

信仰とは「仰ぐ」こと


信仰という言葉について
社会を構成しているのは「神と向き合う個人」/『翻訳語成立事情』柳父章

聖教新聞の池田先生商法


 困っているのは白ゆり長のようだ。特定商取引法違反で消費者庁に申告してはどうか? 善良な人々はいつの時代も無力である。彼らは常に犠牲という選択を強いられる。そうした行為が更なる被害を拡大する。

断る
聖教新聞

2013-05-19

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古代オリエントの宗教 (講談社現代新書) 春と修羅 (愛蔵版詩集シリーズ) サヨナラ! 操作された「お金と民主主義」 なるほど! 「マネーの構造」がよーく分かった

日蓮の誤認

宮崎●ブッダの義母で、後に比丘尼教団を興したマハージャーパティ(摩訶波闍波提)の出家譚は、ブッダが当初これを渋ったと伝承されていることから、よく初期仏教の差別的体質を証拠する挿話として挙げられます。けれどそこにおいてすら、ブッダは女性も男性と同じく阿羅漢になることができると明言しているのです。これを踏まえて、佐々木閑氏は「女性も男性と同等に悟りの資質を持っているという前提は仏教のすぐれた特質である。女性がもともと男性とちがう何らかの劣悪な要素を持っていると前提するなら、そこからは女性は穢れた存在である女性の立ち入りを拒否するいわゆる『女人禁制』の思考などが生じてくる。しかし初期仏教はそういう前提を設けない」と評価しています(『出家とはなにか』大蔵出版、1999)。日蓮は「法華経已前の諸の小乗教には、女人の成仏をゆるさず」と断定していますが(『開目抄』)、これはまったくの誤認です。
「女人五障」等の性差別が教理的に何の根拠も持たないことは明らか。ですから、そういう箇所は手違いで混入した異物と扱い、無視して良いと私は思っています。

【『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英〈くれ・ともふさ〉(サンガ、2012年)】

知的唯仏論 出家とはなにか 釈尊と日蓮の女性観 仏教のなかの男女観―原始仏教から法華経に至るジェンダー平等の思想

宮崎哲弥

ニュース 公明党委員長使い捨て

ニュース 公明党委員長使い捨て

 ・週刊座談会 17:聖教新聞 2006-01-16付