2022-03-18

信仰とは観念操作

 しかし人間は誰でも、自分の注意や願望に反して、何故こんな不幸不運が起るのか、と思い疑う。
 それについて、転んだのはただの過失であり、不運は不運でしかない。その内に運も向くだろう、と言うのでは答にならぬし、人々も満足はしまい。
 そうした原因については、訳がある。その訳を極め、それを正せば、それから抜け出すことが出来る、と言うことで初めて、人間の求めている救いがある。
 宗教は、その訳を、即ち、眼に見えぬものの力、即ち、神、心霊の力に依るものであるとし、ジェイムズの言うが如くに、その力の秩序に順応することで、安心立命があり、救済がある、とする。
 その秩序への順応、即ち信仰と言っても、それにはいろいろな段階があろうが、その初めは矢張り、一つの体験によって、その力の秩序の存在を感じ、知ると言うことに他ならない。
 信仰と言うのは、或る意味であくまでも一つの観念操作だが、しかし、その基点となるものは、あくまでも一個の現実認識である。
 それを欠く信仰は、砂の上にかけた梯子のように、上るにつれ、足元がぐらついて来る。
 その、信仰の出発点、第一段階の基礎固めを、人間に与えることの出来ぬ宗教は、最も根源的な力を欠いていると言われるべきだ。

【『巷の神々』石原慎太郎(サンケイ新聞出版局、1967年/産経新聞出版、2013年『石原愼太郎の思想と行為 5 新宗教の黎明』/PHP研究所、2017年)】

 石原はウィリアム・ジェームズ著『宗教的経験の諸相』(原書は1901年/星文館、1914年/警醒社、1922年/誠信書房、1957年/岩波文庫、1969年)を軸に各新興宗教を読み解く。何の先入観もなく、直接自分の目と耳で判断する姿勢にはある種の勇ましさが窺える。

 信仰を「一つの観念操作」と言ってのける鋭さが侮れない。認知科学的な視点すら垣間見える。

 私が石原慎太郎を見直したのは「小林秀雄を諌めたエピソード」を知ったことが大きい。石原が『太陽の季節』で文壇デビューしたのは1955年(昭和30年)のこと。文士劇が1962年だったとすれば(文士劇)、小林(1902-1983年)が60歳で石原(1932-)は30歳である。小林は若い時分から遠慮を知らぬ男で、酔っ払って正宗白鳥(1879-1962年)に絡んだり、対談で柳田國男(1875-1962年)を泣かせたりしている。たぶん小林は若い石原に自分と同じ匂いを嗅ぎ取ったのだろう。

石原愼太郎の思想と行為〈5〉新宗教の黎明宗教的経験の諸相 上 (岩波文庫 青 640-2)宗教的経験の諸相 下 (岩波文庫 青 640-3)

2022-03-16

正真正銘の数学の天才・ラマヌジャン

・『妻として母としての幸せ』藤原てい
・『流れる星は生きている』藤原てい
・『若き数学者のアメリカ』藤原正彦
・『遥かなるケンブリッジ 一数学者のイギリス』藤原正彦

 ・正真正銘の数学の天才・ラマヌジャン

・『無限の天才 夭逝の数学者・ラマヌジャン』ロバート・カニーゲル
『祖国とは国語』藤原正彦
『国家の品格』藤原正彦

 ラマヌジャンは「我々の100倍も頭がよい」という天才ではない。「なぜそんな公式を思い付いたのか見当がつかない」という天才なのである。アインシュタインの特殊相対性理論は、アインシュタインがいなくとも、2年以内に誰かが発見したであろうと言われる。数学や自然科学における発見のほとんどすべてには、ある種の論理的必然、歴史的必然がある。だから「10年か20年もすれば誰かが発見する」のである。

【『数学者列伝 天才の栄光と挫折』藤原正彦〈ふじわら・まさひこ〉(新潮選書、2002年/文春文庫、2008年)】

 藤原正彦は『若き数学者のアメリカ』で颯爽と登場し、口述を筆記した『国家の品格』で出版界を席巻した。ご母堂の藤原ていは聖教文化講演の常連で、実は夫君の新田次郎よりも作家デビューが早い。正彦も創価学会とは縁があり、著作を必ず池田に贈っている。

 数学者の文章といえば真っ先に岡潔〈おか・きよし〉が浮かぶ。口の悪い小林秀雄と互角に渡り合った人物である(『人間の建設』)。岡の筆致は剣術の如き鋭さがあるが、藤原の文章は柔らかく薫りが高い。

 戸田のことを「数学の天才」と池田は言ったが、真の天才とはラマヌジャンや岡潔のような人を指す。人類の脳は数学を行うには容量が足りないようで、天才といわれる人物は夭折したり廃人になったりしている。過度の集中力が必要なためドラッグを常用する人物も珍しくない。



2022-03-14

自由と不自由

 私たちのほとんどは、安心したいのではないですか。なんてすばらしい人たちだ、なんて美しく見えるんだ、なんととてつもない智慧があるんだろう、と言われたいのではないですか。そうでなければ、名前の後に肩書きをつけたりしないでしょう。そのようなものはすべて、私たちに自信や自尊心を与えてくれます。私たちはみんな有名人になりたいのです。そして、何かに【なりたく】なったとたんに、もはや自由ではないのです。
 ここを見てください。それが自由の問題を理解する本当の手掛かりだからです。政治家、権力、地位、権威というこの世界でも、徳高く、高尚に、聖人らしくなろうと切望するいわゆる精神世界でも、えらい人になりたくなったとたんに、もはや自由ではないのです。しかし、これらすべてのことの愚かしさを見て、そのために心が無垢であり、えらい人になりたいという欲望によって動かない人――そのような人は自由です。この単純さが理解できるなら、そのとてつもない美しさと深みも見えるでしょう。
 というのも、試験はその目的のために、君に地位を与え、えらい人にするためにあるからです。肩書きと地位と知識は何かになることを励まします。君たちは、親や先生たちが、人生で何かに到達しなければならないよ、おじさんやおじいさんのように成功しなければならないよ、と言うのに気づいたことがないですか。あるいは君たちは何かの英雄の手本を模倣したり、大師や聖人のようになろうとします。それで、君たちは決して自由ではないのです。大師や聖人や教師や親戚の手本に倣(なら)うにしても、特定の伝統を守るにしても、それはすべて君たちのほうの、何かに【なろう】という要求を意味しています。そして、自由があるのは、この事実を本当に理解するときだけなのです。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 不思議なほど「虚実」が見えてくる。くっきりと輪郭が浮かび上がる。ともすると「欲望を満たす」ことが自由であるとの風潮がある。100円ショップがこれほど社会に根を下ろしたのは、価格の安さもさることながら、不況下で賃金が停滞する中で「選択肢の広さ」を提供したところにある。ま、駄菓子屋の雑貨版と考えてよかろう。

 政治家は総理大臣を目指し、官僚は事務次官を望む。俳優は主役を欲し、タレントは冠番組を希(こいねが)う。

 話は変わるが100%といわれるプラシーボ効果がある。「高価な薬」は必ず効くのだ。たとえそれが偽薬であったとしても、だ。情報は脳を束縛する。あらゆる薬には一定のプラシーボ効果が認められるが、我々の脳は薬効よりも金銭的な価値を重んじることが明らかである。

 資本主義経済は人々に富の獲得競争を強いる。地位に付随するのは収入である。そして権力は他人を顎(あご)で動かし、額(ぬか)づかせる。他人から頭を下げられると喜ぶ習性はたぶん群れを形成した時代からあったことだろう。

 クリシュナムルティが指摘するのは欲望の危うさであり、彼は驚くべきことに努力や理想まで否定している。何かになろうとする時、現在の自分は卑小な存在と化す。なれない=不幸、なる=幸福という単純な図式が人生の道幅を狭める。他人を見つめる眼差しも成功を基準としたものにならざるを得ない。

 妙の三義とは「開」「具足・円満」「蘇生」である。これを自由の定義と考えてもいいのではないか。